颯田「奨学通信」特別号(H.23.10.01.発行)からの抜粋:

  「総合医について」 
公益法人化を祝して

高久 史麿(颯田医学会名誉顧問、日本医学会会長)
 
  颯田医学賞学会の[奨学通信]への寄稿を依頼された。颯田先生と私とは年代もまた専門も異なるため、颯田先生のご形骸に接する機会は全く無かったが、颯田先生の高第に当たられる切替先生とは、先生が社団法人 東京都教職員互助会三楽病院院長をされておれた時に自治医大初代学長の中尾喜久先生の命を受けて、自治医大の初代の耳鼻咽喉科の教授にご着任していただけるよう、お願いして以来のお付き合いである。又今回理事長になられた古田直樹先生とも長い付き合いで、自治医大の学生が何回も颯田奨学金を戴いており、私自身颯田奨学生の会にも出席させていただいた事がある。今回古田理事長から寄稿のご依頼に際して幾つかのテーマを提示されたが、最近話題になっている総合医は私が奉職している自治医科大学の開学以来の教育の方針としてその育成を目指してきたので、この問題を取り上げる事にした。
  自治医大の卒業生は大学卒業後各出身都道府県に戻り、2年間の卒後研修の後、知事が指定するへき地・離島の診療所に勤務する事が義務づけられている。へき地・離島で働く医師に求められる能力は、総合的な診療能力と必要に応じて患者を専門家に送る判断力である。それに加えて診療所が所属する市町村の様々な保険関係の事業への積極的な参加も求められる。卒後指導委員長であった私は各県の自治医大担当者にお願いして、当時もっぱら卒後の初期研修で行なわれていた単科だけを廻るストレート研修ではなく、多科をローテートする研修ができる、自治医大の卒業生のための研修プログラムを組んで戴くようお願いした。全ての県と言うわけには行かなかったが、従来の大学病院での卒後研修ではなく、県立病院等での卒業研修に切り替えて戴いた結果、卒業生がローテート研修が受けられる様になった県が多くなったと記憶している。その頃から自治医大では総合医と言う言葉が良く使われる様になり、卒業生の集まりの勉強会も総合医学会と呼ばれた。9年間の義務年限終了後の卒業生の中には地域に留まって総合医としての幅広い活動を行なう者、専門医の道に進んだ者、行政の方に進んだ者等、様々な道を歩んでいるが、総合医として在宅医療等を中心に行っている、或いは総合医としてのベースの上に立った専門医となっている自治医大の卒業生の活躍が屡々メディアに登場している。日本では医師不足と言う事が言われ産科・小児科等、幾つかの診療科の医師の偏在が問題になっているが、私は本当に足りないのは幅広い診療能力をもった総合医と総合医としての能力をベースにもった専門医ではないかと考えている。自治医大では開学以来、義務年限と言う言葉が使われてきたが、9年間は総合医としての実力を身につける重要な時間であり、その後専門医となっても決して遅くないと思っている。最近各県に地域枠の入学生が急激に増加している。又地域枠の学生に対しては自治医大が従来行なってきた地域医療の現場での実習が行なわれているケースが多いと聞いている。私はその中から総合医になる事を目指す卒業生が多く生まれる事を期待している。その為には今回新しく生まれた一般社団法人 プライマリ・ケア連合学会と社団法人 日本専門医制評価・認定機構とが協力して総合医の認定医制、或いは専門医制を作る事が望まれる。その制度の確立に日本医学会としても是非ご協力したいと考えている。



.  「颯田先生とのご縁」 
公益法人化を祝して
                  
石井紫郎(颯田医学奨学会名誉顧問、日本学士院会員、東京大学名誉教授)

  私は、颯田先生の謦咳に接したことが全くない。しかしお世話になったことはある。父を介してお願いしたことを叶えてくださった、というご縁である。先生が耳鼻科の教授として東大に御在職であった頃、偶々父が事務局長を務めていた。東大のようなマンモス大学では、一般的には、教授と事務屋が個人的な会話をするような関係になることは滅多にないのだが、何かのきっかけで、父は先生から個人的にもいろいろとご指導を賜る間柄になったようだ。
  先生のお話は、とにかく面白かったそうである。中学・高校生ぐらいの時分であったろうか、しばしば父から、颯田先生のことを聞かされた。《とにかく話題が豊富だし、面白い。今日はこんな話を聞いた。》という感じで、父は私に、その《面白い話》を披露するのである。そのほとんどは忘れてしまったが、健康のために蛇の生血を飲む話などは忘れられない。話題のカテゴリーとしては、音楽関係のものが多かったように思う。
 もっとも、この記憶は、聞き手である私の問題関心の度合いに左右されているのかも知れない。その頃私はちょうど西洋音楽に興味を深めていく時期であった。このジャンルに関しては、あまり恵まれない家庭環境で育った私ではあったが、中学二、三年生になって急速にそちらへ接近し、小遣いを貯めてレコード(当時は未だSPの時代)を買うようになった。
 やがて私が大学に入るころから、LPの時代となった。SPやおんぼろラジオで聴いていたものとは全く違う「音」の世界に接した私は、やがてナマの音楽を求めることとなった。それは、ちょうど外国の有名な音楽家・オーケストラの演奏会が急速に増え出した時代と一致していた。安い席でもいいから、ナマ演奏が聴きたい、という一心で、ソ連、アメリカ、ヨーロッパ諸国から陸続としてやってくる「名演奏家」たちの演奏会を目当てに早暁から並んで切符を買ったものである。
  しかし、人間はとかく贅沢になるもの。こうした苦労なしに、安定したステータスでコンスタントに楽しめる音楽会も欲しくなる。そこで私が目を付けたのが「N響」(NHK交響楽団)であった。何とかして、その「会員」になりたい。だが、調べてみると、それは至難のことであるとわかった。普通のルートを行き、ウェイティングリストの尻尾について待っていたら、何年かかるかわからない。コネはないか? 調べてみると、あった、あった。「颯田琴次」という素晴らしいコネが!
 「颯田先生に、そんなお願いは出来ん!」と突っぱねる父に三拝九拝。結果は書くまでもなかろう。先生は気軽に引き受けてくださり、ほどなく私は夢を実現することができた。そして、その結果、「定期演奏会」で、当時としては日本最高水準のオーケストラをずっと聴けた、という経験は、後年留学で2年間ドイツに滞在することになったとき、《本場の音楽》をエンジョイするための、かけがえのない有益な下地となった。
  今回、図らずも颯田医学奨学会の役員の末席を汚すに至ったことは、この六〇年前に頂戴した先生のご厚情に対して、その万分の一にも足りぬにしても、御恩返しの機会が与えられたものと自覚しつつ、「縁は異なもの・・・」という言葉を改めて噛みしめている。